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口羽家住宅/萩の話 その3


その2より続く) 先日、プチ観光で訪れた萩市の堀内地区は、江戸時代の地割に沿って白壁の土塀が続いています。学校の敷地等も、土塀をそのまま用い、城下町の雰囲気を壊さぬよう配慮されています。世界遺産登録を契機に、この際、景観保持から一歩踏み込んで、萩城・天守閣を復元したら?と思うのは私だけではないでしょう(→こちら参照)

さて、この一画にあるのが、口羽家住宅(下左写真)。現存する数少ない武家住宅の一つで、昨年、NHK 大河ドラマ「花燃ゆ」のロケがあったそうです。私が訪れた時にいらっしゃった女性ガイドの方は撮影に立ち会われていて、その時の状況をいろいろと教えて下さいました。現在、大沢たかお、井上真央、優香のサイン色紙が室内に飾られているので、歴史にあまり興味が無いミーハーな同伴者(失礼!)を連れて行く口実に使えるかもしれません^^(下右写真クリックで拡大)

YouTube には、萩に関する動画がいろいろ投稿されています。どれもよく出来ていて、繰り返し見れば、立派な萩通になれそうです(大和ハウスのテレビCMもなかなかいい)。今回ご紹介する動画は堀内地区の雰囲気を伝えてくれる一本(高画質・高音質なのもポイントです)。お楽しみ下さい。 by dan

世界文化遺産登録/萩の話 その2


その1より続く) 先日、「明治日本の産業革命遺産」(九州・山口ほか)の諸施設を世界文化遺産に登録するよう、ユネスコの諮問機関(イコモス)から世界遺産委員会に勧告がなされました。7月の審査で最終決定の予定です(右画像クリックで拡大←東京新聞WEB より)

他の施設の多くは「産業革命」を体現しているので見た目に判りやすい。一方、萩の城下町や松下村塾は「産業革命」を生み出した母胎/思想の原点であり、歴史を踏まえないとその価値を理解しづらい(特に、松下村塾)。よくぞ認めたものです。少々乱暴に書けば、西洋から見てニッポンは今でも「東洋の神秘の国」なのでしょう。明治維新後、数十年でゼロ戦や戦艦大和、伊400(潜水艦)を造っちゃうわけですから。

マクラが少々長くなりました…。先日、萩のプチ観光をした際、堀内と呼ばれるエリアを散策しました。そこにあったのが、旧明倫館跡。恥ずかしながら、江戸時代に日本三大学府の一つと称された明倫館は創建時より現在の場所(江向)にあると思い込んでいました。驚いたのが、移転後の規模。当初の敷地940坪が、移転後は、敷地15,184坪・建物総坪数11,328坪・練兵場3,020坪になっています(Wikipedia>明倫館 より)

大英断ですね。数多の偉人を輩出した松下村塾も、すぐそばに明倫館があったればこそ、という気がします。明治維新や産業革命の原動力はこうした教育/人材育成に価値を置く藩政(というか国民性?)のもとに生まれたわけです。日本という国は、やっぱり、スゴイのかも…^^(その3へ続く) by dan

菊ヶ浜/萩の話 その1


先日、久しぶりに山口県萩市に帰りました。萩は母の郷里です(→2012/11/14 参照)。今回の目的は「いとこ会」への参加。従兄弟は10人以上いますが、顔を合わせるのは親族の葬儀の時という状態がずっと続いていました。長老(最年長の従兄弟)が「これはよろしくないね、気兼ねせずに楽しく話が出来る場を作ろう!」と言い出して実現したのが今回の「いとこ会」です。萩市内の某ホテルに集まり、楽しいひと時を過ごしました(^^)

山口県外から参加した近畿在住の3名(私を含む)は新幹線で新山口駅まで移動。そこでレンタカーを借りて早めに現地に行き、当日の午後と翌日午前の小観光を織り込んだ一泊二日の旅でした。一応押さえておこうと軽い気持ちで寄った松下村塾は、現在、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」放映中ということもあり、すごい賑わいでした^^(右上写真クリックで拡大)

今回、特に感動したのが久しぶりの菊ヶ浜。小学生の頃、よく海水浴に行きました。それ以来となる菊ヶ浜は、快晴にも恵まれ、こんなに風光明媚なところだったっけ?という美しさ(下写真クリックで拡大。左に見える山は指月山)。沖合には複数の小島が浮かんでいて、瀬戸内海を思わせる穏やかな光景です(実際には外海=日本海に面している)。思い出の地を再訪して現実の姿に落胆する話は多いですが、今回は逆(感動しました)。萩の魅力は歴史だけではないことを再認識した次第です(続く) by dan


(上のパノラマは数枚の写真を ICE / Image Composite Editor 2 で合成)

PS 後日、本州の海岸線(日本海側)をざっと確認したところ、菊ケ浜のように小島が望めるロケーションは珍しいことが判りました。北長門海岸国定公園(しかも、見どころの一つ)になっているぐらいですから、風光明媚で当たり前です(^^)

「松陰先生のことば」/吉田松陰の話 その3


その2より続く) 卒業前には、松下村塾で朗唱発表会を行うそうです(右写真は今年の様子。こちらのブログよりお借りしました)。6年間で朗唱する言葉は3×6=18あり、すべて萩市立明倫小学校のホームページで公開されていますので、是非ご確認下さい。

この時期に学んだ言葉や考え方は、大人になっても忘れないもの(老人になっても、小学校の校歌を覚えている人は多い)。一生の財産になりますよね。素晴らしい取り組みだと思います。ちなみに、私が暗唱できる唯一の吉田松陰の言葉が、親に何度も聞かされた「親思うこころにまさる親ごころ~」なので、明倫小の1年生に負けてます(苦笑)

ところで、昭和初期に建てられた明倫小学校の木造校舎(右写真)は今も現役で使われているそうです。こちらのブログを拝見すると、”古き良き時代”の雰囲気が残っています。私の学び舎(小学校、高校)は建て替えられて、跡形も残っていないことを思うと、うらやましい話です(^^) by dan

「松陰先生のことば」/吉田松陰の話 その2


その1より続く) さて、萩に明倫小学校という学校があります。藩校・明倫館跡に建てられ、名実ともに明倫館の伝統を受け継いでいます。ですから、出身者として、吉田松陰、高杉晋作らの名前を挙げてもよいでしょう。こうした歴史を踏まえて1981年に始められたのが、「松陰先生のことば」 朗唱です。冊子としてまとめられていて、一般の人も購入可能です(写真中央。私は、萩市で買い求めました)

  

生徒は、1年生の1学期から吉田松陰の言葉を毎朝朗唱します(学期毎に言葉は変わります)。入学した最初に朗唱する言葉が「今日よりぞ/幼心を打ち捨てて/人と成りにし/道を踏めかし」。そして、2学期、3学期の言葉が上の二つ。

2学期に朗唱する言葉(写真左、クリックで拡大)などは坂本竜馬を思わせます。ちなみに「賤」とは難しい漢字ですが、一人称の代名詞(私という意)。そして、3学期の言葉(写真右)は、松陰が刑死の前に家族へ送った辞世の句。私の母親は、この句を見るたびに涙が出るなどと申しております(^^;;。しつこいですが、これらを小学1年生で朗唱するのです。明倫小生、畏るべし!(その3へ続く) by dan

「松陰先生のことば」/吉田松陰の話 その1


母親の郷里が山口県萩市なので(2011/5/22参照)、子供の頃、毎年(春・夏の2回)、親と一緒に帰省していました。今振り返ると、当時の萩は「すっぴん」状態。観光地としてのアピールが弱く、史跡も日常風景の中に埋もれていて、誰かが教えてくれて初めてわかる、そんな感じの街でした(逆に上手いなぁと感心するのが津和野です。メイク美人?←すみません^^;;)

余談ですが、私が高杉晋作の名前を覚えたのは、母の実家から海水浴に行く途中に彼の生家があったからです(右写真)。学校で歴史を学ぶ前のことでした。

吉田松陰の松下村塾も「小さな寺子屋を見た」という程度の印象しか残っていません(左写真)。正直言って、歴史を知らない子供が見ても面白い建物ではないでしょう^^;;。明治維新における奇跡というべき、その凄さを多少なりとも理解できたのは、もっと後のことです(続く) by dan

吉田松陰と高杉晋作の花押


先日、児玉清さんが亡くなられました。NHK「龍馬伝」で龍馬の父親として出演されているのを拝見したのが(私にとって)最後となりました。改めてご冥福をお祈り致します。

さて、右の写真は、吉田松陰と高杉晋作の花押ストラップ(クリックで拡大。花押についてはこちらを参照下さい)。「龍馬伝」放送時、その人気にあやかって?某メーカーが景品にしたもの。実際に使うこともありませんが、お守り代わりに手元に置いています。母親の郷里が長州(山口県萩市)で、子供の頃、毎年一緒に帰省していた私にとって、二人とも「地元の英雄」ですから(^^)

東日本大震災の対応のまずさ等から、リーダー(エリート)不在の弊害が言われている昨今、「松下村塾」で思うのは教育の力。吉田松陰が指導に当たった期間(約2年)を考えると、本当に驚異です。志の高い者には然るべき教育を!そう思います。 by dan